≪内部卓話≫ 山本 和之会員 テーマ『 弘前・温故知新 』 
弘前の街づくりに、「こどもを大切にする街」というコンセプトを取り入れられないだろうか?その理由は、全国に誇るべき、こどもへの愛情の歴史がここにあるからだ。
弘前愛成園創設者・佐々木五三郎の話。
時代は明治。明治 34 年、五三郎は茂 森町 に居を得て薬種業を営む。そこにある人物が現れる。名は石井十次。彼は日本で始めて孤児の救済を事業(岡山)としてなした人物。五三郎はその石井十次の講演を聞いて弘前で孤児救済を決心し、明治 35 年 11 月 3 日、東北育児院の看板を掲げた。折りしも津軽は凶作に見舞われていた。
引き取った子供の数は、明治 35 年 5 人、 36 年 12 人、 37 年 18 人、 38 年 23 人…。特に明治 37 年からは日露戦争による孤児が急増していった。五三郎は、子供に行商を手伝わせた。しつけと独り立ちへの訓練のためでもある。そして彼は市民に寄付を呼びかけ続けた。
「貧困孤児の街頭に徘徊して、食を求むる者いよいよ多く、窮乏の状、迫り」
さらに彼は訴える。「血も涙もある 弘前市 民よ!飢餓のために背に腹は変えられず、親に捨てられた十数人の子供達が、餓死を迫られている」行商と街頭演説で五三郎は「孤児院のオドサ」と親しまれる。婦人会・篤志家・だんな衆が寄付に応じ、津軽藩最後の藩主・津軽承昭も7円を寄付している。しかし子供は増える一方。台所はいつも火の車。奥さんのたか子さんの苦労は筆舌に尽くしがたい。そこでちょっとした縁を得て活動写真の巡業を開始。その後、ある篤志家の協力を得て常設映画館「慈善館」を山道町に開設。その収益で孤児救済活動を続けた。それがいまの弘前愛成園につながっている。
佐々木五三郎を支えたのは「血も涙もある 弘前市 民」だった。そのことを我々は誇りに思いたいし、その思いを街つくりに活かしたいものだ。 |